宇都宮城の歴史
中世から宇都宮氏の居城となり、関東七名城ともうたわれた宇都宮城の歴史を紐解きます。
宇都宮市都市整備部公園管理課
中世から宇都宮氏の居城となり、関東七名城ともうたわれた宇都宮城の歴史を紐解きます。
はじめて宇都宮城を築いた人物は、11世紀の平安時代、藤原秀郷とも藤原宗円ともいわれています。以来、約900年にわたって、宇都宮の政治・文化の拠点として重要な役割を果たすことになりました。
鎌倉時代から戦国時代までの中世は、宇都宮氏が城主でした。宇都宮氏は鎌倉幕府の有力御家人であるとともに、京都ともつながりが深く、5代頼綱(蓮生)は、百人一首の成立にも深く関わっていた人物です。
宇都宮氏は宇都宮城を政治的な本拠地とするとともに、二荒山神社の神官として、宗教的権威をもって下野国(栃木県)の中央~南東部を支配していました。
南北朝時代や戦国時代には、宇都宮城をめぐっての戦いが行われ、城下町が焼かれたこともありました。
宇都宮城は、関東七名城のひとつとして数えられ、戦国の世を生き抜いた難攻不落の城です。
[関東七名城]
宇都宮城(宇都宮市)、忍城(埼玉県行田市)、金山城(群馬県太田市)、川越城(埼玉県川越市)、唐沢山城(佐野市・田沼町)、多気城(茨城県つくば市)、前橋城(群馬県前橋市)
※多気城を除いて佐竹城(茨城県常陸太田市)を加える説もある。
宇都宮氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ、江戸時代には譜代大名が次々と入れ替わり城主をつとめました。なかでも、江戸時代初期の本多正純は、城と城下町の大改修を行い、今日の宇都宮市街地の骨格を作り上げたといわれています。
宇都宮城は、歴代の将軍が徳川家康の祀られている日光東照宮にお参りする途中の宿泊場所となり、そのため、宇都宮城本丸には将軍のための「御成御殿」が建てられました。
「釣天井事件」とは、宇都宮城主・本多正純が、日光社参のために宇都宮を訪れた2代目将軍秀忠公を、からくり仕掛けの天井で暗殺しようと企てた事件のことです。しかし事実ではありません。
「釣天井事件」は、家康の死後、幕府内の権力闘争によって古い権力層が追い落とされていくなど、当時の社会状況を反映しつつ、読物や講談の題材になって、世間に広まった伝説です。
家康の懐刀といわれた本多正純の大改造により1キロ四方もの広さを誇った堅牢な宇都宮城。
1868年に起こった幕末の戊辰戦争で、大鳥圭介や新撰組の土方歳三ら率いる旧幕府軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、残念ながらその戦火によって建物の多くは焼失してしまいました。
その後、堀や土塁も崩されて、当時の面影をしのぶものはほとんどなくなってしまいました。