宇都宮城の歴史「日光社参と宇都宮城(6)」

天保(てんぽう)14年(1843年)4月12日の午後10時に、いよいよ日光社参行列の先頭が江戸城を出発しました。

先頭は奏者番(そうじゃばん)の安藤対馬守(つしまのかみ)、以後大名ごとに、4月13日午前0時、午前2時、午前4時……と、ほぼ2時間おきに出発しました。

将軍のすぐ後に、老中・水野忠邦(ただくに)が従っています。
お供の大名だけでも26人、行列の総人数は14〜15万人にもおよび、行列の先頭が岩槻に達しても、最後尾はまだ江戸城に居たとも伝えられています。

将軍は、日光御成(おなり)街道を通って、その日は川口(埼玉県川口市)で昼食、岩槻城(岩槻市)で宿泊。

翌14日は幸手(幸手市)で昼食、日光街道に入り、利根川を渡って古河城(茨城県古河市)で宿泊。

15日には、下野国(しもつけのくに、栃木県)に入り、小金井(国分寺町)の慈眼寺(じげんじ)で昼食。
慈眼寺へは宇都宮城主・戸田忠温(ただはる)が出迎えに来ています。

石橋(石橋町)の開雲寺で小休止の後、雀宮を経て、宇都宮城下に向かいます。

水野忠邦は、岩槻以来、先導を勤めていました。

(「広報うつのみや」より抜粋)
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